2020年11月、15年の現役生活にピリオドを打った、元中日ドラゴンズの吉見一起さん。
その現役後半を陰から支えたのが、元高校球児でもある、デサントの田中勇吾さんだ。
出会いからグラブ作りを通し信頼関係を築いてきたことが語られた前編に続き、後編では吉見さんの引退までの葛藤、指導者としての理想像など今後について聞いた。
(取材・文/徳重龍徳、撮影/佐々木謙一)
ストライク、ストライク、ボール。196試合目の先発のマウンド。精密機械と呼ばれた男のボールはすべて“代名詞”の外角低めだった。4球目、コントロールされた直球は糸を引きながらアウトローに収まり、対戦相手のバットは空を切った。中日ドラゴンズ[…]
チームのために投げられないなら…引退までの葛藤
「ドラゴンズを辞めようと思っています。」
2020年9月、吉見さんから電話越しで告げられた言葉に田中さんは驚いた。
「吉見さんの言葉を聞いて、『そうですか』とただ答えました。けれど、内心は、マジか…と。そのときには声に出さなかったですけど…。」
吉見さんは田中さんに電話をかけた場面を今でも鮮明に覚えている。
「電話したシチュエーションも場所も忘れません。田中さんに電話をかける前、別件で監督と1時間くらい電話をしていたんです。その後に田中さんに電話をして考えを告げました。電話越しだったけれど驚いていることは感じました。『そうですか』くらいで終わると思っていたんです。こんな選手からやっと離れられるわと(笑)。でも田中さんは『えええ』って感じで。」
実は当時、吉見さんは中日ドラゴンズから離れ他球団への移籍を考えていた。田中さんには後日、改めて球場に来てもらい、自分の今後について「引退するか、移籍するか」のどちらかだと直接説明した。
「田中さんのことはずっと信頼していました。それに野球選手は裸じゃ仕事ができないじゃないですか。グラブなどを用意してもらって初めて野球ができる。報告するのが当たり前だと思っていました。」
2020年の吉見さんは、開幕直後から1勝2敗と調子を上げられず、二軍に落ちたものの、そこでは先発ローテーションを守り、12試合で5勝3敗、防御率2.77と安定した数字を残してきた。周囲も、田中さんも、吉見さんが現役を続行すると考えていた。
しかし、吉見さんの考えは違った。
「そこはものの捉え方なんですけど、僕は“上”を見てしまったので。上で投げたい。でも二軍で投げなきゃいけない。去年はなんで二軍で投げてるんだろうといろいろな葛藤のなかで投げていました。」
一軍に上がりたい。けれど、その思いのなかで生まれた自分の感情が、吉見さんには許せなかった。
「野球ってチームスポーツですよね。僕はまずチームとして優勝したい。そこを目指した結果としてタイトルが獲れたり、Bクラスだったりする。それが2019年まででした。でも2020年は一軍のローテーションの誰かが打たれないと、自分は一軍に上がれない。味方の打たれ待ちですよね。そういう思考になった自分がしんどくて。」
周囲からは「味方を蹴落としてでも」という感情はアスリートとして普通だとも言われた。でも吉見さんはそう考えられなかった。
「普通だって言われたけれど、そうなのかなって。なんか、自分はあまり勝負師じゃなかったのかなって。でも、味方にネガティブな感情を入れるのは間違っていると感じ、ドラゴンズを辞めようと思いました。」
技術より大切なのは人間性
勝負師じゃなかったと笑う吉見さんだが、大事にしていることがある。それは人間性だ。両親からも、祖父母からも常に言われ続けてきた。
「僕はもう、人であるならそこしかないと思っています。たかが野球。人生で見れば本当に短い時間だし、どれだけ勝とうが、活躍しようが、稼ごうが、野球が終わったら関係ないじゃないですか。それよりも人間性が大事です。高校時代のコーチからも『野球だけできてもいかんぞ』と言われていました。そのときは分からなかったけど、プロに入ってその意味が分かりました。」
今や球界を代表する投手である、福岡ソフトバンクホークスの千賀滉大投手は、まだ育成選手だった2012年に吉見さんと自主トレを行い、以後親しい関係が続いている。
千賀投手は、代名詞であるフォークボールは吉見さんから教えられたものだと公言しているが、吉見さんはその点について謙遜する。ただ、常に伝えていたことがある。
「出会った頃はキャッチボールなどのアドバイスをしましたけど、結果を残してからは、彼自身のなかに軸ができたので言う必要はない。ただ彼には『常に謙虚でいなさい』と言い続けていました。何かあるたびにそれしか言わないです。」
2019年9月6日、千賀投手がノーヒットノーランを達成したときも、吉見さんは“おめでとう。謙虚でいなよ。”と伝えた。
謙虚でいなさい。それは吉見さんの経験から生まれた言葉だ。
「野球界は周りから見て華やかな世界であることは間違いない。メディアも調子が良いときは良く扱ってくれるんですけれど、ダメになると手のひらを返したように扱わなくなる。僕はそれをけがをしたときに経験してるんですよ。それで、自分は天狗になっていたんだな。だからメディアも扱ってくれなくなったのかなと思いました。」
天狗にならず謙虚でいれば、調子が悪くなっているときでも人は離れない。吉見さんは自身の経験から、それだけは千賀投手に伝えたいと思った。
吉見さんの引退試合には、千賀投手とともに、同じく吉見さんと親交のある福岡ソフトバンクホークスの石川柊太投手が駆けつけた。2人は吉見さんに挨拶をすると「明日は練習がありますから。」とその日のうちに名古屋を離れたという。
吉見さんはその気遣いが何よりうれしかったそうだ。
引退試合のボールを渡されて
中日ドラゴンズの投手たちや、千賀投手、石川投手など吉見さんを慕う選手は球界に多く、また活躍する選手が多いことから、自主トレは「吉見塾」と呼ばれることもあった。そこには彼の人間性があるように思う。
田中さんが吉見さんにひかれるのも、この人間性の部分だ。
「現役時代もすごく気を遣ってもらいました。僕みたいなメーカーの人間に対する対応もすごくきっちりされていた。そういった部分も含めて、引退するまでずっと担当したいという気持ちがありました。実は会社の一部、ごく数人には『販促をやるうえで吉見選手が辞めるまでは担当を続けたい。吉見選手が引退されるまで、担当を変わりたくない』と伝えていました。」
吉見さんは他球団の道、海外でのプレーなども考えた末、引退することを決断する。田中さんに伝えたのは引退会見の2日ほど前だった。
電話で引退を聞いた田中さんは「ありがとうございました。」と話した。吉見さんも「こちらこそ、ありがとうございました。」と返した。
引退を聞いたとき、田中さんにはある思いが去来した。
「引退されるまで担当をやりたいというのはずっとありましたから。だから、ほんまに…。電話で引退されると聞いたとき、ちょっと自分のなかではグッとくるものがありましたね。」
一方で、吉見さんが引退する実感は不思議と湧かなかった。引退会見を見ても、引退のセレモニーを見ても、まだ湧かなかった。
後日、吉見さんは田中さんが働く、デサントの大阪本社に挨拶に訪れた。そして吉見さんは野球ボールを田中さんに手渡した。引退試合のボールだった。
「引退試合のボールは田中さんに渡すと決めていたので。忘れないようにね。もともと僕、ウイニングボールとかにそんなにこだわりがなくて。家にコレクションしたりしてなくて、子どもが壁当てに使ったりしています(笑)。だから“家宝”として手元に置くんじゃなく、田中さんに渡そうと思いました。」
ボールを手渡されて、田中さんにはうれしさとともに込み上げるものがあった。
「そのとき、ようやく吉見選手が引退されるんだという実感が湧きました。」
吉見さんへのサプライズプレゼント
2021年、解説者として初めて臨んだキャンプは、吉見さんにとって新鮮なものだった。現役生活では他球団のキャンプはもとより、同じ中日ドラゴンズでも野手の練習の様子も分からなかった。
「今は勉強中です。野球について知らないことがたくさんあります。」
キャンプについては、田中さんのほうが先輩だ。
吉見さんが「キャンプってチームによってカラーが違いますよね。パ・リーグはすごく明るくて、キャンプを見たときにすごいなと感じました。」と話すと、田中さんが「アメリカみたいなイメージだよね。」と返す。おのずと野球談義は盛り上がる。
このインタビューの日、田中さんから吉見さんにサプライズプレゼントとして1着のユニフォームシャツが贈られた。
胸にあるロゴ「K.S.R.S.J」は吉見さんと奥さん、そして3人の子どもたちのイニシャルだ。吉見さんのグラブには、いつもこのイニシャルが縫われていた。そして左袖の「感謝」は、いつもサインに書いていた言葉だ。
「家族」と「感謝」。どちらも吉見さんに欠かせないものだ。
今は3人のお子さんが野球をする姿を見るのが楽しみだと言う。
「楽しいですよ。イライラもしますけど(笑)。でも僕はコーチじゃないので、指導はしません。バッティングピッチャーをするくらい。子どもに『もうちょっとこっちに投げて』と言われることもありますけど(笑)。」
指導者としてもう一度ユニフォームを
解説者の先には指導者という目標がある。
「高校野球はしんどいなというのはありますけど、社会人野球であったり、指導者として求められる場所はほかにもあります。理想はドラゴンズのユニフォームを着ることだと思います。」
理想の指導者を聞くと、とある監督の話をしてくれた。
その監督時代、吉見さんがナイターを終えて食事会場に行くと、吉見さんはテーブルに来るよう声をかけられた。
「監督はご自分の経験談だったり、奥さんとの馴れ初めだったり、野球の話もそれ以外の話もいっぱいしてくれた。普段は寡黙なイメージですけど、選手をすごく守ってくれていた。良いなと思います。」
吉見さんの野球選手としての技術、実績もさることながら、チームを第一にする考え。何より人間力。指導者として将来を有望視されているわけは、短い時間でも伝わった。
まして一緒にプレーした選手、スタッフ、何より応援してきた中日ドラゴンズファンは、もう一度指導者として吉見さんがユニフォームを着る姿が見たいだろう。
田中さんもその日が来るのを心待ちにしている。
今回、吉見さんにお贈りしたユニフォームシャツは、オリジナルデザインの野球ユニフォームを作れるデサントのサービス「SMART CHOICE SYSTEM+」で制作しました。
<サービス詳細>
「SMART CHOICE SYSTEM+」は、PCやスマートフォンから簡単にウェアのデザインができる3Dシミュレーションサイトです。野球のユニフォームシャツ、バレーボールのユニフォームシャツを5枚から制作できます。何度でもデザイン修正可能で、SNSでシェアしながらチームメンバーで相談して作ることができたりするなど、便利なサービスです。
ストライク、ストライク、ボール。196試合目の先発のマウンド。精密機械と呼ばれた男のボールはすべて“代名詞”の外角低めだった。4球目、コントロールされた直球は糸を引きながらアウトローに収まり、対戦相手のバットは空を切った。中日ドラゴンズ[…]