ストライク、ストライク、ボール。196試合目の先発のマウンド。
精密機械と呼ばれた男のボールはすべて“代名詞”の外角低めだった。4球目、コントロールされた直球は糸を引きながらアウトローに収まり、対戦相手のバットは空を切った。
中日ドラゴンズの吉見一起さんは2020年11月6日、ナゴヤドーム(現 バンテリンドーム ナゴヤ)での試合で15年のプロ野球生活に終止符を打った。
中日ドラゴンズの黄金期を支えたエースの引退試合。その引退試合のボールを手渡された人物がいる。デサントの社員で、グラブやスパイクといったギアの部分で吉見さんを支えてきた田中勇吾さんだ。
吉見さんと田中さん、2人の知られざるエピソードを前編・後編にわたって聞いた。
(取材・文/徳重龍徳、撮影/佐々木謙一)
吉見さんと田中さんの出会い
「年上じゃないですか。でも話すとすごく下からくるから嫌だなぁと(笑)。立場的に仕方ないのかなと思いますけど。みんなの前は敬語で良いけど、2人でいるときはタメ語で良いのに。」
田中さんの印象について聞くと、吉見さんは冗談交じりにそう話した。
「早めに言ってよ。言葉を選んでしゃべってたのに(笑)。」
田中さんも顔をほころばせる。談笑する2人の言葉で周りの空気が和む。互いの信頼関係が伝わった。
田中さんは、デサントのスポーツマーケティング部スポーツマーケティング2課に所属する。
デサントの製品を使用しているプロ野球選手に課題やリクエストはないかヒアリングを行い、選手の力がより発揮できるよう、サポートやフォローを行う仕事だ。
田中さんは国内の球団や個人選手を担当している。そのなかの一人が吉見さんだった。
田中さんは当時のことを回想しながらこう語った。
「デサントは当時、ウェアで新しいカテゴリーを立ち上げるために、ウェア契約できる選手を探していました。そこで考えたのが、中日ドラゴンズの吉見さんでした。そんなとき吉見さんがデサントに興味を持っていると話を聞き、吉見さんがいらっしゃる名古屋のホテルで待ち、ご挨拶しました。2012年の夏頃だったと思います。」
こうして吉見さんは2013年からデサントと契約し、田中さんとの関係が始まった。
吉見さんは田中さんに全幅の信頼を置いていた。その理由に、レスポンスの速さがある。ウェアについて依頼をすると、早ければ翌日には手元に届いているのだ。
田中さんは「デサントのある大阪から名古屋は距離があり、なかなか球場に行ってフォローできない部分があったので、速さだけはちゃんとやらないといけないと考えていました。」と話す。
誠実な対応は、吉見さんの心にも届いた。
「田中さんの対応が、デサントの製品を使いたいなという思いにつながりました。だから2013年から引退するまでずっとデサントでした。」
改善、改善、改善だった吉見さんとのグラブ作り
吉見さんによれば、中日ドラゴンズの黄金期のメンバーには道具に関して共通点があったと言う。
「一軍でバリバリと活躍していた人を思い返すと、レギュラーは試合が終わった後は毎日グラブを磨いていました。試合が終わると肩・肘・膝と6ヶ所をアイシングしながら、グラブを磨いていた方もいましたね。ほかの一流選手もみんなそうでした。レギュラーの人ほど大切にしていました。」
プロ野球選手にとっては、グラブやスパイクはそれほど大事なものだ。
そんなグラブやスパイクについて、選手からのニーズを細かく聞き取り、開発担当者と連携しながら、モノづくりを進めていくのも田中さんの仕事だ。
では、吉見さんのグラブのこだわりとはどんなものだったのか。大切にしたのは“フィーリング”だ。
「まずグラブをはめた感じで合う、合わないがある。はめた感じのフィット感と、投球するときにグラブを巻き込む際の収まりの良さを大事にしていました。」
吉見さんのグラブは形状にも特徴がある。変化球の握りが分からないようグラブは大きく、捕球面もほかの選手よりも広い。軽さや指の長さにもこだわった。
ほかの選手を担当した経験もある田中さんだが、吉見さんのグラブはとりわけ特徴的だったと言い、「そこまで意識されているんだと驚きました。本当にいろいろと勉強になりました。」と振り返る。
グラブは大切な商売道具だけに、簡単にはでき上がらない。吉見さんの希望を丁寧に聞いた田中さんは、開発担当者とともにグラブを改良。再び試してもらい、またフィードバックをもらう。これを繰り返し、約1年ほどでグラブの基型を開発する。
吉見さんは当時の思い出をこう語る。
「最初に送られてきたものは“板”みたいなグラブで、いやいやこれはやばいやろと(笑)。そこから改善、改善、改善。こんなに話し合うんだってくらい改善です。『グラブを5mm長くしてください』とか『捕球面を広くしてください』とか。でも、すぐに使いやすくなって、途中からは文句がなくなりました。」
精密機械と呼ばれるコントロールが武器だった吉見さんだけに、細かい違和感がピッチングに狂いを生じさせないように気を遣う。
「僕はできることなら同じグラブで1年間いきたいんです。サラ(新品)のグラブを使うとうまく握れないというか、合わない。収まりが悪くて、嫌なんです。だから田中さんには『柔らかいグラブをください』と伝えていました。」
田中さんは吉見さんに型付けしたグラブを送る際、「硬さを常に同じに保つようにしていた。」と言う。
「変わらないものを絶対提供しようと思っていました。選手が『これが良い』と言ったら、絶対変えちゃ駄目なんです。」
「グラブといえば…」今だからこそ語れるエピソード
吉見さんは赤いグラブを使う機会が多かったが、これは「もともと赤という色が好きだから」という単純な理由だ。この「赤」にまつわるエピソードをうわさでたびたび聞くというが、吉見さんは笑う。
「『登板前日は真っ赤なトランクスをはいて寝る』とか話をされることもあるんですけど、持ってもないんです(笑)。」
そんなうわさが立つほど活躍する吉見さんがデサントと契約したことは、中日ドラゴンズの投手たちにも影響を与えた。
「引退した今だから言えるんですけど、実は僕のグラブが使いやすいから、使わせてほしいという投手が何人かいました。僕はグラブの型付けがうまいんですよ。だから、グラブをプレゼントして、そのグラブを使う選手もいました(笑)。」
昨シーズン、中日ドラゴンズで大活躍した選手もデサントのグラブを使っているが、これも吉見さんがいたからだ。
「ある選手から、『デサントのグラブを使うことできないですかね』と相談されたんです。すぐに田中さんにメールをして、使えるようにしてもらいました。」
夏の全国大会で決勝まで戦った田中さん
田中さんにとって「吉見」という名前とは縁がある。
もともと田中さんは高校球児。1998年の夏の全国大会には京都成章のレギュラーとして、決勝まで進出している。決勝の対戦相手は横浜高校。ノーヒットノーランで敗れるその試合、田中さんは最後のバッターだった。
U-18の日本代表にも選ばれた田中さんだったが、大学卒業後、就職先に選んだのは化粧品メーカーだった。
「野球から離れたいと思っていたんです。スポーツから。区切りを付けたかったんです。」
その決意を動かしたのが、同じチームで田中さんの後の4番を打っていた吉見太一さんの存在だった。吉見太一さんは大学、社会人を経て、2005年にドラフト3位でプロ野球チームへ入団する。
一緒にプレーした吉見太一さんのプロ入りは、それまで離れたいと思っていたスポーツへの思いが芽生えるのに十分だった。当時、ちょうど社員を募集していたデサントに、田中さんは応募し入社する。
そして田中さんは2012年、その後深い信頼関係を結ぶ、中日ドラゴンズのエースだった吉見さんと出会う。
人柄、プロとしての考え、何度もけがをしながらも野球に向き合う姿勢。いつしか「この人が引退するまでずっと担当でいたい。」と考えるようになっていた。
月日は流れ、昨年9月。新型コロナに揺れたシーズンも終盤に差し掛かろうという頃、田中さんのもとに吉見さんから電話がかかってきた。
「ドラゴンズを辞めようと思っています。」
吉見さんから出てきたのは意外な言葉だった。
(後編へ続く)
2020年11月、15年の現役生活にピリオドを打った、元中日ドラゴンズの吉見一起さん。その現役後半を陰から支えたのが、元高校球児でもある、デサントの田中勇吾さんだ。出会いからグラブ作りを通し信頼関係を築いてきたことが語られた前編に続き、[…]
