アマチュアカテゴリーのチームがプロを倒す姿、いわゆる「ジャイアントキリング」はファンの心を揺さぶる。
サッカーの醍醐味でもあるこんな光景を、毎年のように見せてくれているのがJFLのHonda FCだ。今年で101回目となる天皇杯でも、FC岐阜と横浜Fマリノスを撃破した。
その強さの要因、そしてチームが掲げるものとは。
選手時代も含めHonda歴20年を数え、今シーズンから監督を務める安部裕之氏に話を伺った。
取材・文/竹中玲央奈(Link Sports)
写真/黒川真衣
2019年、天皇杯でJリーグが発足して以降、4部(実質)以下のチームとして初めてHonda FCは天皇杯のベスト8まで駒を進めた。その大会では鹿島アントラーズに0-1で敗れたものの、前年にアジア王者となった浦和レッズを埼玉スタジアムで撃破[…]

強者の基盤を作った井幡前監督
――安部監督はHondaで選手時代を過ごし監督になりましたが、ここまでの経歴を簡単にお伺いしても良いでしょうか?
私は、地元の京都紫光サッカークラブから三重の四日市中央工業高校に進み、大学は国士舘でプレーをしました。Hondaに入ったのは2002年で、2012年まで合計11シーズン、プレーしました。
実は、高校3年のときにHondaの練習に参加して入団直前まで進んだのですが、12月の年末の終業式の日に「駄目になった」と言われたんです。そこから急遽大学を探して国士舘に進学しました。
そして、大学4年のときに大澤(英雄)先生に呼ばれ「お前をHondaに行かせたいと思ってる」と言われたんです。そこから練習に参加して入団することができたんです。
――引退なさったのが2012年で、そこからアンダーカテゴリーのコーチもやられていましたね。
引退後、2013年から2016年の4年間は社業をしていました。選手のときに所属していた部署で働いたんです。
その後、2017年の4月からU10、2018年の年が明けてから年末まではU12を見ていました。2019年の1月からトップチームのコーチを2年間やらせてもらい、今年から監督になった形です。
――指導者に対する思いはもともと強かったのですか?
はい。当時の副部長の人と話したときに「引退した後に指導者側に来る気持ちはあるか?」と言われて。そこで「あります。将来はそういう仕事に就きたいです。」と返答しました。
ただ、僕らは会社員だから、サッカー指導の現場だけでなく会社のことを知らないといけない。サッカー部で65歳まで働けるわけじゃないですからね。「仕事のイロハを覚えて潰しが利くようにもしておきたいです。」とも伝え、4年間社業に励んだという形です。
そこからアンダーカテゴリーの指導を任されたわけですが、とても楽しかったですよ。子どもたちは純粋なので、僕が言ったことがすべてになるから責任感は感じますけど、それが刺激的で楽しかったですね。
――HondaはJFLで常に優勝争いをして成績を出して、長らく強者として居続けられています。どこに要因があるのでしょうか?
やはり、井幡(博康)さんの存在が大きいと思います。
2008年に優勝して以降、少し低迷する時期がありました。でも、井幡さんが来て、“勝つためにはこうすべきだ”という基準や “王者のメンタル”を植え付けてくれたと思っています。
現役時代に僕も感じていたのですが、少し負け癖がついている時期に来て、常勝チームに変えてくれた。
僕はその路線を引き継いでるところも多分にありますし、井幡さんの作ったチームを受け継いだだけ、という感じですよ。
――ただ、それだけの基盤を作ってくれた方から受け継ぐプレッシャーみたいなものもあったのではないでしょうか?
井幡さんが監督をされていたときは、7年間でリーグ戦5回の優勝をしていて、天皇杯に出た際もJ1以外のチームには負けていません。Hondaは勝つものだと思われてるから、重圧はありましたね。
でも、なんでしょう…。好きなことを仕事にさせてもらっているし、このクラブに対する思い入れもあるし、変なプレッシャーやストレスはないですね。
“対策”をして勝っても何も残らない
――井幡さんのもとでトップチームのコーチを2年間務めたなか、感じた部分や吸収したものもあったのでしょうか?
たくさんありますが、一番はゲーム中の分析力と修正力ですかね。試合前に選手へ多く話はしないんです。でも、試合中やハーフタイムでバシッと言った言葉で劇的に変わる。試合中の配置変更や交代で流れも大きく変わりますよね。
分析して手を打って好転させるのはすごいなと思います。でも、すぐに真似できるものではない。経験も必要ですからね。
――井幡さんを受け継ぐ点もありつつ、安部さん自身が大事にしてる部分や方針などを教えていただけますでしょうか?
選手たちがプレーをしていて楽しいかというのが大前提で、そのなかでどうすれば個性が活きるかは常に考えています。また、どのポジションだったらその選手が輝けるか、ということも。今年はコンバートも結構多いんですよ。
あとは、あまり多くを伝えすぎないことですね。選手のなかで、自分たちで判断をして、プレーできるように、と。
天皇杯の横浜Fマリノス戦でも記者の方に話したのですが、今までうちが積み上げてきたことを捨てて、例えば「マリノス対策」をしても何も残らないと思うんです。
うちのクラブはそうではなくて、自分たちが積み上げてきたものを発揮しようと。それでしか勝機はないと思うし、それを変えようとは思わないです。それで通用しなくて、負けてもしょうがないや、と。
仮にマリノス相手だからと言って、後ろに枚数をかけて引いて守ってカウンターを狙えばPK戦まで持っていくことができるかもしれません。でも、それをやったところで何も残らないな、と。
であれば潔く真っ向勝負したほうが良いと思いました。うちはこれで戦うんだよっていう、そういう覚悟は持ってるつもりですけどね。
――チームにとっての天皇杯の意義はどう考えていますか?
大きいですね。ただ、僕らのメインはJFLだし、天皇杯だけだとは思われたくないんです。とはいえ、天皇杯の注目度が高いのは事実。
自分たちの価値を証明する大会という位置付けであることは間違いないと思います。応援してくれる人に何か夢や活力を与えられるような大会かなと。
――立場を変えながら長らく在籍していますが、その経験からHonda FCはどういう組織と言えるでしょうか?
答えになっているかは分からないですが、僕が思うのは、誰からも応援されるチームでありたいと。それは対戦相手も含めて、「Hondaとまたやりたい」と思われるようにしたい。
僕らは25人の選手を抱えているのですが、いろいろな部署に散らばって仕事をしています。現場でモノづくりをするメンバーもいれば、パソコンを使って事務作業をしている選手もいる。1つの部署に固まってしまうと、試合などで抜けたときにダメージが大きいので分けているんです。
一方で、1日の半分だけ仕事をして半分はサッカーをする。そういう役割だと正直、業務で大きく力になることは難しい。だからこそ、僕らサッカー部の選手に求められてるのは、その職場を元気付ける存在になること。
いろいろな部署に分散しているなか、それぞれの職場でちゃんと応援してもらえるようになることです。それは選手には言いますね。
人間として自分が彼らより多少長く生きてる分経験もあるし、Hondaでそれを感じたこともあります。だからこそ「今いる場所でちゃんと必要とされる人になれよ」とは伝えます。
その選手が同僚を10人連れてくれば、それだけで300人近くの方が応援に来てくれる。
選手たちはそういう存在になってほしいですし、従業員の人たちや応援してくれる人たちに力を与えられるチームでありたいなと思っています。
2019年、天皇杯でJリーグが発足して以降、4部(実質)以下のチームとして初めてHonda FCは天皇杯のベスト8まで駒を進めた。その大会では鹿島アントラーズに0-1で敗れたものの、前年にアジア王者となった浦和レッズを埼玉スタジアムで撃破[…]
