25年以上にわたり、国内外の代表チームや選手の競技用ウェアを作り続けてきた職人がいる。デサントで「パタンナー」としてウェア開発に携わってきた田中悌二さんだ。
パタンナーとは、ウェアの「型」を作る役割。年々、競技レベルが上がり、0.01秒が“決定的な差”となるスポーツにおいて、ウェアのできは結果に大きく影響する。
仮にウェアの型やサイズが選手に合っておらず、わずかでもたるみができれば、空気抵抗が生まれてタイムが落ちるかもしれない。かといって、着圧がきつすぎれば選手のパフォーマンスにマイナスとなる。
田中さんは、選手の要望を徹底的に聞くスタイルで、たくさんのウェアを作った。
例えば1998年、長野で感動を生んだスキージャンプ日本代表、あるいは2010年、カナダのスピードスケート代表チーム。これらのウェア開発には、田中さんの姿があった。
この記事では、田中さんの歩みを振り返りながら、パタンナーとしての矜持に迫っていく。
1998年長野、涙の裏にあった選手とのウェア作り
「1998年、長野でスキージャンプ日本代表が優勝したときは、さすがに涙が出ましたね。まだこれからも人生は続きますが、間違いなく私の生涯で一番の思い出です。」
日本代表が奇跡を起こし、全国が熱狂したそのとき、田中さんは現地で観戦していた。スキージャンプ日本代表のウェア開発を担当していたからだ。
田中さんがスポーツウェアの開発に携わり始めたのは1982年のこと。それから16年、あの瞬間は「自分のウェア開発の歴史のなかで、一つの集大成だった。」と言う。
「何ヶ月も選手と話しながら、意見を吸い上げてウェアの型紙を作成しました。ジャンプ台のある大倉山や宮の森(※ともに北海道札幌市)、そして長野に何度も足を運びましたね。選手一人ひとり、カスタムメイドで作った型紙です。」
選手と徹底的にコミュニケーションを取りながら、ウェアを開発するのが田中さんのスタンスだ。そこで大切なのは「まず選手に信頼されること」だと言う。
「多くの選手は、最初、半信半疑で接してくるものです。ただ、毎回きちんと選手の意見をウェアに反映し、改良したサンプルを作って結果が出ると、選手の信頼度は上がります。だからこそ、選手の要望に対し『できない』とは言いません。まずやってみて、結果がダメならその変更は排除する。意見を聞いて反映するという繰り返しが、選手の信頼につながっていくのです。」
長野での結果は、その努力が日の目を見た瞬間だった。田中さんにとって、まさしく一つの集大成だったのかもしれない。
「入社したとき、デサントがどんな会社か知らなかった」
パタンナーの第一人者として長く活躍してきた田中さんだが、この道に入ったのは偶然だった。
1960年10月10日、のちに「体育の日(スポーツの日)」となる日に、田中さんは生まれた。出身は新潟県の越後平野。父は雨具の製造販売会社を経営しており、その会社を手伝うつもりで東京の服飾専門学校に進学した。
「しかし、専門学校の卒業前に帰省すると、親父に『外でもっと苦労してこい』と言われました。それで就職活動を始めて、ある人から紹介を受けたデサントに入社したのです。ただ、デサントがどんな会社か、当時はまったく知りませんでした(笑)。」
1981年4月にデサントに入社すると、生産本部に配属され、3ヶ月間の研修を受けた。内容は、でき上がった製品の検品や搬入・搬出。毎日、製品を見ているだけで「当時は何が研修なのか分からなかった。」と笑うが、後になって「実は製品を見る目を養っていた」ことに気付いたと言う。
「数え切れないほどの製品を見るなかで、デサントのウェアの品位、仕上がりや縫製の美しさの基準を学んでいたのだと今は思います。それは、型紙を作る技術にも通じます。」
1年半でスポーツウェアの道へ。後輩のためにマニュアルを作ったことも
田中さんがスポーツウェアに関わり始めたのは、入社から1年半後の1982年9月。ようやく新人研修が終わる間際に、人手が足りないとの理由から当時会社をけん引していたトップブランドのTシャツを担当した。
今振り返ればスポーツウェア一筋の人生を歩んだ田中さんだが、その道のりはまさに偶然の連続だったのだ。
入社2年後からはパンツや水着、レーシングスーツなどを担当。ノウハウを独自にマニュアル化したこともあった。それらは、後輩への教育や課内でのマニュアルにも取り入れられたと言う。
「当時は、説明するよりも『先輩の背中を見て学べ』という時代でしたから。でも、いくら後輩が私の背中を見ても、頭の中まで知ることはできない。かといって、いちいち聞くのも鬱陶しい(笑)。それなら文字にしたほうが良いだろうと、マニュアルにしたんです。」
縫い目による空気抵抗まで考慮して型紙を作る
以降はスキーパンツの設計を主に担当。キャリアを積み上げ、日本のみならず数多くの代表チームのウェア開発も行うようになっていった。
そうして迎えたのが、冒頭の1998年。長野での思い出だったのだ。最高のウェアを作るために、あらゆる風をシミュレーションしたと言う。
「スキージャンプは風の抵抗が結果を左右します。実際に自分がジャンプすることはできませんが、シミュレーションでどこまで風を想像できるかが私たちの仕事。ウェアの縫い目と空気抵抗の関係まで想定してウェアに反映していきました。」
長野以降も、日本代表のウェアに携わり続けた田中さん。ときにはこんな苦労もあった。
日本代表のウェアは、デザイナーが決めたシルエットをウェアに施しつつ、競技として最適なものを作るケースが多い。あるときは「デザイナーが決めたシルエットをプリントしたウェアを開発したのですが、シルエットの色が薄いと何度も戻されたこともありましたね(笑)。」
カナダ代表チームのウェアを開発。ここでも変わらないこだわり
そんなエピソードもありつつ、パタンナーとして実績を積み上げた田中さんに転機が訪れた。2010年、カナダスピードスケート代表チームのウェア開発に参加することとなったのである。
「ウェア開発にあたり、カナダの大学と協力して風洞実験を行うなど、代表チーム・大学・デサントで力を合わせて開発しました。」
そこでも、田中さんのサイズへのこだわりは変わらなかった。当初、選手の採寸はサンプルを使って行う予定だったが、それでは選手一人ひとりの体にフィットしたウェアは作れない。田中さんはそう主張し、各選手のヌード寸法を測ったという。男性選手は田中さん自ら、女性選手は女性のスタッフが採寸した。
「それでも、納品後まだサイズに満足しないウェアがあり、現地の縫製工場と急遽契約。細かなサイズ調整を行いました。」
パタンナーの役目は「選手の力を引き出すお手伝い」
田中さんに言わせれば、自分の役目は「少しでも選手の力を引き出すお手伝いをすること」だと言う。だからこそ、選手のためを考えてサイズにこだわり抜いた。
選手本位の考えは、こんなエピソードにも表れている。
あるカナダのスキークロス選手のウェアが大会の決勝直前で足りなくなり、ほかの選手のものを代用しようとした。しかし、ちょうど良いサイズがない。そこで田中さんは、現地で急遽新しいウェアを作った。
「生地は持参していたので、なんとかできると思いました。ほかのスタッフとともに、まずは残っていた別のウェアをばらして裁断し直し、生地を足して制作。翌日にはでき上がり、選手に渡しましたね。結果、その選手は優勝。印象深い思い出です。」
その後も、カナダのスキークロス代表チームとの関係は続いた。
2021年、今このときに田中さんが選手たちに望むこと
2018年には、自転車トラック競技のウェア開発という新たな分野への挑戦が始まった。
自転車競技は、特にウェア素材の規制が厳しい。そのなかで、大きな動きが起きる下半身の素材は伸縮性を重視し、風圧を強く受ける上半身の素材は、空気抵抗の低いものを選んだ。素材選びから型紙作りまで、新たなやり方を構築していった。
そのなかでも大切だったのは、やはりサイズ。選手一人ひとりの体に完璧に合わせることだった。
「ウェアのサイズに少しでも違和感があれば、空気抵抗が生まれるだけでなく選手の集中力もそいでしまいます。このときも、毎回サンプルを作って、その度に選手の感想を聞いていきました。」
こうして、偶然、デサントの門を叩いてから、いつの間にか40年の月日が経っていた。
そして今年、スポーツ界は大きな節目を迎える。田中さんは自身の想いをこう口にした。
「やはり、デサントのウェアを着用した選手が自分の力を出し切ってほしいですね。そして競技が終わった後、選手が使ったウェアを大切に感じ、持ち続けてもらえたら本望です。それは、この1枚を開発した人間の努力を認めてもらった結果だと思いますから。」
競技用ウェアの開発に人生を捧げた田中悌二。彼が手掛けたその作品には、選手本位で考え、こだわり抜いた第一人者の努力が詰まっている。
文/有井太郎
<プロフィール>
田中悌二
1981年にデサントに入社し、パタンナーとして、年間350着以上のウェアを開発する。日本代表やカナダ代表など、ウィンタースポーツの代表チームのウェアにも多数携わった。現在も代表ウェアの開発に携わり、後輩の育成に努めている。
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